今日ニュースを見ていたらこんなニュースがあった。
バイト中に食べ残しのパスタを手掴みで食べたり、ホイップクリームを食べたり、ソフトクリームの機械に口で迎えて食べたりしている動画が問題になっているニュースだ。
確かに、最近こういうニュースはよく目にする。しかし、それを見る度に1番最初に思う事は、
『何で人を陥れようと思うのだろう。』だ。
確かにやっている人が悪いし、頭が悪い事をしている。そんな事は分かっている。
だが、なぜ、
人は人を陥れようとするのだろうか?
この動画はInstagramのストーリー機能だった。ストーリーの機能は24時間で動画は消えてしまう。それにTwitterの様にリツイートの機能がないので、鍵を付けていなかったとしてもフォロワー以外の人に見られる事は殆どない。という事は、この事を拡散したのは少なくともフォロワーであるその人の知り合いの可能性が高い。それも24時間以内だ。拡散した人からすれば、この動画がどうなる事か少なくとも分かっていたはずだ。それなのに1日も待たず、拡散をしたという事は何の躊躇も無かったのだろう。
動画を撮った人、写っていた人を肯定する訳じゃない。ただ、拡散した人が拡散した事を『正義』だと思うなら全力で否定したい。
確かに悪い事をした。いけないことをした。
ただ、拡散した人が『正義』というならその人は何をしたというのだ。
ただ、画面録画をしてネットに晒しただけだ。そんなに、彼たちが捕まって欲しかったのか。そんなに反省して欲しかったのか。いや、捕まって欲しいなら拡散などせずに直接警察に言いに行けばいい。
結局、動画を拡散した本人も動画を撮った彼達と同じく、面白半分で拡散したのだろう。
陥れるつもりはなくても、その動画を多くの人に見てもらうことで、あたかも自分が有名になった気になりたいのだろう。
最近の世の中は自分の承認欲求を満たす為なら人を陥れる事は普通にある。多くの人に面白いと思われることが出来るなら、簡単に人を貶す。悪いことをした奴がいれば、あたかも正論をぶちまけたようなツイートをする。それらを多くの人が共感する。「自分が正しいんだ」と思う。そして自分の承認欲求を満たす。
でも、その人達は必ず顔を出さない。
そんな『勇気』なんてないからだ。
悪い事を正したいなら、正論を言えるのなら、自分の顔を出し、自分の口で直接訴えたらいい。
何故それをしない。『正義』なんて感情が無いからだろう。拡散された人は一生そのレッテルを貼られて生きて行くだろう。ただ、そのレッテルは誰かの『正義』で貼られたものじゃない。
誰かが承認欲求を満たすために貼られたレッテルだ。
このネットワーク社会は腐っている。毎日毎日、誹謗中傷をする事を楽しみにして生きている人がいる。誰かを陥れなきゃ自分を認めることができない、誰かを陥れなきゃ自分の価値を見ることができない人がいる。正直これは無くならない。
けれど、それは誰にだって身近にある事だ。
誰でも自分の意思とは裏腹にそれらしい事をしてしまう時があると思う。自分だってそうだ。
そんな時には思い出せばいい。
何が『正義』なのか。
何が『自分の価値』を決めるのか。
今一度ネットの使い方と承認欲求について考えようと思った良い1日になった。